昭和五十六年七月十五日 朝の御理解
御理解代四十二節
これ程信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。
神様を信じるという信じる。そこから全部がおかげ、半信半疑ではおかげも半分。もう疑ってかかればおかげはなし。どうしてということは、既に神様をまあ疑うた事になるわけですね。だから信心はもうそれで止まっておるとおっしゃるけれども、神様の働きを封じてしまう。そんな感じが致します。ですからそう始めから神様が分かるとか、信じるとかということは出来ませんけれども、ここにこう素直な心というものが、信心には求められるわけで、はあ親先生がああおっしゃるから、そうかなというふうなね、直な受け方頂き方。そこから神様を段々頂くことがでけ、もう絶対信と申しますか、神様を絶対信じ申し上げる働き信、内容が生まれてきて、又信じて向かえば全部がおかげとおっしゃるような、おかげにもつながっていくわけですね。
信心、分からん。神様、分からん。けれどもこれはまあだ、信心が足りんのだと思うて、説明しとられますね。ですから直にそれを頂きますとはあ、こりゃまあだ自分の信心が足りんのだとおもうて、分かる分からんは別として進めて参りますといわゆるそこからおかげが受けられる。ね。そこからのおかげはいわゆる生き生きとした神様の働きを受ける事が出来る。はぁおかげ頂く、神様のおかげじゃなぁということも分かってくるわけ。これはもう本当に私は合楽理念が容易い、合楽理念は簡単です明瞭ですおかげが確かですという風に、まぁ合楽理念のキャッチフレーズですよね。
ですから確かにそうなんですけれどもね、やはり今日の御理解じゃなかばってん疑うてかかればこれは大変やっぱり難しいことなんです。
昨日私はここで前に座っております誰先生でしたでしょうか、あのう今度の久富先生のお国替えのことでございますけれども、久富先生が絶筆になっているお届け帳をずうっとこう書きますかね、その最後に書いておるひとは誰かと、私はここから聞きましたら、調べて、あのう返事が返って参りました。それは一番最後は、吉田正子という人ですとこういう。
私は途端におかげ頂いとるなぁと思いました。どうでしょうか、皆さん感じられるでしょうか。吉田正子と、そして次に先生が倒れられたという電話を受けたのが三橋ミツカ先生であり、お国替えのお届けがありましたのを受けたのが上野愛子先生です。ね。合楽に傾倒しようというなら合楽の信心を本当に分かろうと、私の御理解をある意味において、信じて頂いて下さっとるならばこれを聞いただけで、ああ、素晴らしいことだなぁ、一分一厘間違いのない働きの中に先生の御帰幽があったんだなぁ、お国替えがあったんだなぁと分かるでしょう。どうです分からんならあなた方のはちょっとおかしいね。これ程合楽で御理解、頂いとって分からんならばおかしい。
勿論吉田正子というのは、正しい絶対のおかげの受けものを頂いてのお国替えであったという事ですよね。田は田のお知らせはおかげの受け場とこうおっしゃる。田園も持たずに、そのなら野菜ひとつでも稲作ひとつでも作る事は出来ません。だから田園が先ずあっておかげの受け場なんです。受けもの。しかも正しくという吉田、しかも吉い田というね。湿田とか不毛の地じゃない。本当によい田をしかも正しく受けておられたなとこういう。それが先生の絶筆であった。ね。前日の話です。亡くなられる前日のお届け。
そしてなら倒れなさった。そして御帰幽になったというお届けを三橋ミツカ先生が受け、そして最後のお届けを上野先生がしておる。三橋ミツカとはね、光の橋ミツカである。いわゆる光の橋というのは、まあ合楽の御結界ということになるんじゃないでしょうか。あの世この世を取り持つ御結界の働き、しかも光に満ちた御結界でお取次を頂いて、そして最後の所はどっこい、天地の親神様が受けて下さったということでしょう。
ここでは上野愛子先生のことを、のお知らせを頂いた時には、天地の親神様の最高の愛という意味なんですよね。上野愛子というのは。まあ皆さんはまあ聞いておられるから分かられるでしょうから、なら、その事を聞かれただけでね、はぁ先生がおかげ受けてあったなぁというようなものをね、感じるわけです。これ程間違いのない、その働きの中に、まあ昨日の告別式があったんですけれども、ちょっとおかしいことがあった。というのは、告別式が二時からでございましたけれども、まあ、そこに、二十分くらいね、火葬場から御遺骨がここまでくる間の時間がちょっとかかりすぎたわけでしょう。ちょっと合楽的ではないでしょうがね、打てば響くようなとか、一分一厘間違いないとかいうのに、例えばもうそれこそ立錐の余地もないように沢山な参拝の方達があっており、待たせておるのに、二十分間いうなら遅れたと、私はもうすぐお詫びさせて頂きましたがです、今日の御理解なんですね。これ程しに信心するのに、どうしてと思う家族の者の信心とのずれが二十分であったということね。
昨日も家族中で済みましてからお届けに出て参りましたから、もうこんなにもお父さんが今度の御帰幽の事はこんなにも間違いのない、こんなにもおかげ頂いて、まあいうならばお国替えの手本のようなもんじゃったよというたら、何妙な顔をして腹かいとるわけじゃないだろうけれども、まあどうした感動のない人達だろうかと思うような感じでした。
いわゆる上野愛子とか三橋ミツカとかいうなら、吉田正子の意味が分からないからなんです。本当にそうです、親先生。そしてからもう本当にまぁ一ヶ月でも二ヶ月でもまぁ介抱でもしてからなら残り多い事なかったけれども、もうなくなる事に間に合わなかったから残念だと。あんたどんが日頃親不孝しとるけんたいち私が申しました。本当にいうならば、日頃孝行出来とるならばね、とてもあの素晴らしいお国替え見てから、確かに父がおかげ受け取ったなぁということになるだろうけれども、こんなにも間違いのない私が云う、お国替えの手本のようなおかげを頂いとるとに、いわばどうしてというものがなんとはなしにこうあるわけですね。
本当に神様を信ずる、神様を感ずる、こういうひとつのまぁ心というか、云うならセンスを持たなければいけませんね。信心さして頂くならば、センスね、あの人はなかなかセンスがいいと云うね。鈍なようであるけれども、宗教的なセンスというものは素晴らしい。
昨日、久富繁雄さんが何回も何回もあのうあれを(弔辞)を読まれながらね、あのう弔辞を承っておられましたから、もう私はとても読めますまいと、こう云われるんです。なしやち云うたら、何遍自分の書いたものをこう読んでみただけで胸が詰まってものがでませんと、とても本番になったらいよいよ声が出らんごたるといわれるわけです。まぁそれがよかとこの、心で読みなさいともうしましたような事でございましたどもね、結局センスがないと感動も何もないです。
いわゆる宗教的というものが磨かれていかれねばならん。これは十三日の十三日会の日でしたけれども、佐世保から石本興亜という方が、これはあのうブラジルに行っております末永先生のお仕事の友達で、その時分に椛目に何回か参って来たことがあった。そして末永先生があちらへおかげを頂いておると云う話を聞いて感動した。それから一生懸命お参りしてくるようになった。今は佐世保から伊万里の朝参りを毎朝欠かさないという。もう実にまじめな人ですが、必ず十三日会にはこちらの方に参って来ますが、もう親先生、先日もう本当に不思議な不思議な事がございましたとこういう。どうしたことかと私聞きましたら、先日家内と二人でお仕事の都合であの山の山奥に入りました。お弁当を持ってそりでお弁当の時間になりましたから、木陰に寄って夫婦であのうお食事を始めようと思った時に、ああほんにお昼の信行がしてなかったと思うて、夫婦でお昼の信行を始めました途端でございました。
もう下の方からですね、まあ十五秒ばかりの間でしたけれども、それこそ千も万もの金の鈴を打ち振るような音がずうっと上がってきたげな。もういうなら全山の蝉をあのう一遍に聞くようなまあ音でしたとこういう。十五秒あまりでした。もう私共夫婦、身の震う思いがして、こりゃ何か格別の神様の働きというて、感動致しましたというお届けであった。
お徳に触れていくときにね、そういう天地の不思議な不思議な働きを感ずるです。いわゆる感動がね、ないなら頂かれんです。ね。天地の芯がこちらの芯に移って下さるような時にゃ、私共も様々な事がございました。はいもう不思議な不思議な働きを頂きましたが、それを聞かせて頂きながら、はぁこの人はお徳を受けるなぁと思いました。もう天地の徳がですね、もう入り込んでいきよるときですその人にね、それも結局受けものですね、感動です。神様を信じるか信じないかということです。いや、信じるところまでは分かっていないにしても、素直心がない証拠です。
親先生はああ云われるからとなら、それを親先生の云うことを信ずる。神様は信じられなくとも、というような所からですね、そういう天地の働きも又、受ける事もでけるのです。私共の日々の上にも、それこそ神様がものを云うてござるごたるですねぇというて、まあ皆さんにももうしますようにです。昨日も久留米の佐田さんから二度電話がかかって来た。その電話がもう本当にテレビをちょっと引かせて頂いたら、今私が御理解頂いてきた御理解ね、ちょっとテレビを見せて頂いたら、今私が分からなければならない事というようにですね、神様はいつも絶えずどこからか、私共にね、手を導いて下さろうとする働きがあるのですけれども、私が今日皆さんに聞いて頂きましたこれ程、信心ずるのにどうしてというような心があればおかげにならんです。
親先生がああおっしゃるからと同時に自分の心の中を深く見つめて、これは真あだ本当なことがでけていないからだ、これは信心が足りんのだと思うて信心をしていけば、そこからおかげが頂ける。そこからのおかげが素晴らしいんですよね。 どうぞ